うちには綺麗な毛並みをした愛犬がいた。
いつもどこか落ち着いていて、家族を見守り、一緒にいられるこの空間や時間を慈しんでいるような、そんな達観しているような犬だった。
名前は朔太郎。
でも、呼ぶときはいつも「サク」とか「サクちゃん」とか呼んでたから、本人はきっと自分の名前が朔太郎だとは思っていなかっただろう。
私が生まれる前から家にいて、かれこれ二十年近くは生きていた。
人間換算で百歳。
そんな歳だというのに、彼の毛並みは若々しくいつでも綺麗だった。
撫でるとふんわりなめらかで、私の存在そのものを優しく包んでくれるような感覚があった。
そんな見た目には全く年老いている感じを見せない、若々しさの塊のようなサクが亡くなったのは、私が高校二年生の時、夏休み初日の事だった。
その見た目とは裏腹に、最近は寝ていることが多くなってきていたサクと、一学期の疲れを癒すように気持ちよく日向ぼっこをして過ごしていた時だった。
くぅーんと一鳴きすると、そこから眠るように旅立って行った。
そこからの数日間は、彼の見送りでバタバタしていた。
家族みんなで火葬場から帰ってきたその日。
疲れ切っていた私はお風呂に入る気もせず、二階の自分の部屋へ向かった。
そのままベッドに飛び込んで深い眠りを享受したかった。
しかし。
「おかえり」
そんな私を出迎えたのは、ついさっき家族みんなで見送ったはずのサクだった。
ふかふかなベッドの上でくつろいでいるサクの姿が、そこにはあった。
その姿を見て私は・・・
「・・・ただいま」
普通に返事をしていた。
身体が、思考が、今この時この場所で起こっている事態に対応しきれていなかった。
おそらくすでに半分くらいは寝ていたんだと思う。
「まぁ今日はゆっくり休め」
そう言うサクを目の端に捉えながら、私は意識を睡魔に手渡した。
―――翌日。
目を覚まして、のっそりと身を起こす。
鏡に映ったボサボサになった長めの髪と、そのまま寝てしまったが故にヨレヨレになってしまった制服を見て、せめて制服くらいは脱いでおくべきだったかと後悔したが、そういえば夏休みに入ったばかりだったという事を思い出す。
しばらく制服を着る機会もないし、いつだってクリーニングに出せる。
「おはよう」
声がする方を見ると、やはりというか、サクがいた。
昨日見送ったはずのサクが。
寝てしまう前の記憶は曖昧だし、すでに夢見心地な状態だったから、私の見間違いとか、さみしさから来る幻覚とか(そっちの方がやばいか?)そんなものだろうと思ってたのだが、この状況から察するにどうやらこれは現実のようだ。
「・・・ふぅー」
ひとつ、深く息を吐く。
もう一度じっくりとサクの姿を見る。
多分、私は、正常だ。
「・・・おはよう」
だから、とりあえず挨拶を返すことにした。
「お、意外と冷静なんだな。もっと混乱するかと思っていたが」
「・・・まぁ、なんでいるのとかなんで喋れてるのとか、色々気になるところはあるし説明してほしいことだらけなんだけどとりあえず・・・シャワー浴びてくる」
そう言った私を見て、サクはカカッと笑った。
なんかアニメのキャラクターみたいだなって思った。
部屋を出て、下に降りると家の中はもぬけの殻だった。
両親は共働きで、妹は部活。
夏休みなんて関係ない。
サクがいなくなっても日常は続いている。
あんなに忙しかった翌日なのに、みんな普通に会社に行ったり学校に行ったりしてるのだと思うと、すごいなって思う。
時計を見るとすでに正午を過ぎていた。
私なんてこの時間まで寝ていたというのに。
脱衣所に入って改めて鏡を見ると思った以上にひどい顔をしていた。
疲れ切った顔。
まぁ無理もないなって思う。
まずはシャワーを浴びてすっきりしよう。
色々考えるのはそれからだ。
―――お風呂を出て、お腹が空いたので冷蔵庫を漁る。
サンドウィッチがあった。
私はそれをかじりながら自分の部屋へと向かった。
扉を開けると・・・。
「・・・まぁいるよね」
一度目は疲れ切った状態。
二度目は寝起き。
ここでいなければ私の脳みそが勝手に生み出した幻影ってことになったんだけど、残念ながらそうはならなかった。
「なんだ?どうした?」
「いや・・・なんでもない」
濡れた髪をバスタオルで吹きながらサンドウィッチを頬張る。
「行儀が悪いぞ、唯」
「いいじゃない別に。ていうか、親みたいな事言うのね」
「カカッ、そりゃそうじゃろう。お前さんがお腹の中にいる頃からみとるんじゃ。わしにとっては可愛い子供と変わらん」
「・・・そーですか」
飼い犬にそう言われて、あーそういうランク付けだったんだと思うのと同時に、どこか照れくさくも感じた。
何よりも生前のあの何もかもを慈しむ様な雰囲気が、そっくりそのまま反映されていてむしろそう見ていても違和感がない。
「それで・・・これはどういうことなの」
サンドウィッチの最後の一口を口の中に放り込んで、サクと向き合う。
改めて聞こうとすると、何を聞けばいいのかわからな過ぎた。
だから必然的に漠然とした質問になってしまう。
「ふーむ。そうじゃなぁ・・・わしにもわからん」
「はい?」
「気が付いたらここにいたからの」
「あー・・・」
詰んだ。
なぜこんな状況になっているのか、謎は謎のまま解決しないらしい。
「これどーすんのよ・・・」
「カカッ、そんな深く考えんでも、なってしまってるもんはそういうもんだと受け入れるが良いよ」
「簡単に言うね。いいよねわんこは。そうやって能天気にいられるんだから」
「能天気か・・・カカッ、確かにそうじゃのう。カカカッ」
「笑い事じゃないっての」
「しかしなぁ唯。わからん事を考え続けていても詮無いとは思わんか?わしは少なくとも・・・こうしてお前さんと言葉を交わせるのが嬉しいよ。生きとる間じゃ、絶対に叶わんからの」
そう言うとサクは目を細めて、また同じようにこの世のすべてを慈しむ様な雰囲気を醸し出す。
でも、そうかもしれない。
例え幻想であってもそうでなくても、今ここにサクがいて、こうして会話ができる。
それは確かに、私にとっても嬉しい事に違いは無かった。
「まぁそうかもね」
「お、良いぞ。何事もまずは受け入れてみることが肝要じゃ」
「・・・ほんと、仙人みたいな事言うよね。犬ってみんなそうなの?」
「犬にも千差万別あるという事じゃよ」
近所の飼い犬達と比べても、サクは飛びぬけて落ち着いていたようには思う。
ドッグランとかに行くと、サクも遊ぶは遊ぶけど、よく見てみると周りの子たちと遊んであげているように見えてたりした。ほかの子達からしても長老みたいな扱いだったんだろうか?
「それにしても唯。お主は出かけないのか?父も母も『シゴト』とやらに行き、舞も『ブカツ』なるものに行ったが・・・お主には何もないのか?」
そう言われて、一瞬うっ、となった。
「・・・もう夏休みだしね。学校も休みだし、私部活入ってないし。課題さえ終われば何にもしなくていいからねー」
少し自虐も含め、そう言ってみる。
ちょっとだけ心が苦しくなった気がした。
「ふむ。何もしなくていいというのは、良いの。気楽で。その割には楽しくなさそうじゃが」
「ぐっ・・・」
こうして簡単に見破ってくる。
このサクという老犬にはいったいどこまで見えているのだろうか?
なんだか力が抜けて、ベッドに倒れこんだ。
「・・・はぁ・・・まぁそうね。何もしなくていい、ってより何もすることが無いのよ。私は舞みたいにやりたいことあるわけでもないし。何か打ち込める趣味を持ってるわけでもないし。・・・私は・・・私には何も無いのよ。私はこれからどう生きていきたいんだろう・・・」
「・・・カカッ。なら今年の夏は、それを探してみれば良いのではないか?」
「簡単に言うよね・・・。アンタが思ってるより人間の世界ってのは、いろんなことがあり過ぎなのよ。だから何から手を付ければいいのか・・・」
ふと気が付く。
サクに問い詰められて、初めてこんな深くまで自分の現状を考えた気がした。
・・・いや、元々考えてはいたのかもしれない。
ただ言語化することによって、初めて自覚した気がした。
(そうか、私は『何か』をしたいのか)
必死に部活に励む妹の姿を見て、辛そうだけど楽しそうで。
私はそんな舞を、少し疎ましく思っていた。
でもそれはきっと・・・
(羨ましかったんだ)
そう自覚すると、途端に恥ずかしくなってくる。
同時に、自分に対して苛立ちを覚えた。
「・・・はぁぁぁぁぁ・・・」
「カカカッ、また深い溜息じゃのう」
能天気にサクが言う。
ちょっとイラッとしたが、ここで怒ったらさらに虚しくなるだけだ。
だから、それも含めて全て受け止めることにした。
「・・・そーね」
そう言うとサクは少しポカンとしたような表情をして、それからまた目を細めた。
「よし、わしにできることがあればなんでも言え」
「犬なんだよなぁ」
確かに手は借りたいが。
「とはいうものの、言った通り皆目見当もついてないのが現状なのよ。だからそもそも何を手伝ってほしいのか・・・」
と、言いかけて思い出す。
そうだ。
今話してるのはサクだ。
私を生まれた時から見ているサク。
こうして普通に話していると変な感覚になるが、サクはサクだ。
「・・・ねぇサク。私って何が好きだった?」
「ん?そうじゃのう・・・。最近は見てないが、よくわしの絵を描いてくれたの」
確かに、小さい頃の私はよく絵を描いていた気がする。
サクの絵も、お父さんお母さんや舞も。
あとは、幼いながらにクレヨンで風景を描いてた記憶を思い出す。
小学生のころには何か賞をもらった記憶もある。
「なんで忘れてたんだろう」
思い返せば、たくさん絵を描いていた。
好きだったのだ。絵を描くことが。
今は・・・どうなんだろう。
「でも、うん。とにかくやってみるか!」
何もない夏休みが、急に色付き始めた気がした。
まずはやってみよう。
それで違ったらその時はその時だ。
不安は尽きないが、それでも今は期待感の方が大きい。
この夏は、忘れられない夏になる。
そんな気がした。
終わり